ただひたすら強さを求めて・・・。
2008年10月7日 日常
日夜調整に励んでいた。そんな時代がSASAにもありました。(過去形?)
でも今のSASAはもう「強さ」より「楽しさ」を求めたカジュアルプレイヤーになりつつあります。(いや、ならねばならない!)
SASAがかつて強さを求めた結果行き着いた先は「相手にやりたい事をやらせない」、「安定した人殺しが行える」という事を前提とした構築理論でした。
最近よく考えてしまうのが、その考え方では、相手は自分のデッキの完成度を測る生贄でしかなく、そこに「楽しい」コミュニケーションはないのではないのか?という事です。極端な例を挙げるなら、過剰なハンデス、1KILLに近いデッキ等が挙げられます。最近まで、遊戯王で「マジエク1KILL」という安定性と速攻性を兼ね備えた非常に強力なデッキがあったのですが、試合風景を見ていると、どちらか仕掛けた方が「あ、足りた」と言って、1ターンで8000ポイント以上のライフを奪い、勝利している様子を多々目にしました。対戦相手はただ、相手の展開を眺めて死を待つばかり・・・。これが普通なのでしょうか?昔はたぶんSASAも何の疑問もなく「強いな、参考になるなー」とスルーしていた事でしょう。でも最近やたら気にしてしまうのです。やられた相手はその試合を本当に「楽しむ」事ができたのか?と。
確かにまぐれながらもいくつか成績は残せました。しかし、今となっては虚しい過去の栄光とさえ思えます。ああ、たぶんもうトーナメントプレイヤーとしてのSASAはずいぶん前から死んでいたのかもしれませんね。
「自分、相手ともに勝ち負け関係なく楽しめる」、そういうデッキをこれからは考えていきたい。そしてコミュニケーションの幅を広げていきたい。そう思います。
P.S:殺人マシーン(?)になるのは公式大会当日だけで十分(もうロートルですがw)。日常の公認大会くらいは、難しく考えたり、勝ちに固執せずに、参加者の皆さんとただ楽しく過ごせたら、と思います。
でも今のSASAはもう「強さ」より「楽しさ」を求めたカジュアルプレイヤーになりつつあります。(いや、ならねばならない!)
SASAがかつて強さを求めた結果行き着いた先は「相手にやりたい事をやらせない」、「安定した人殺しが行える」という事を前提とした構築理論でした。
最近よく考えてしまうのが、その考え方では、相手は自分のデッキの完成度を測る生贄でしかなく、そこに「楽しい」コミュニケーションはないのではないのか?という事です。極端な例を挙げるなら、過剰なハンデス、1KILLに近いデッキ等が挙げられます。最近まで、遊戯王で「マジエク1KILL」という安定性と速攻性を兼ね備えた非常に強力なデッキがあったのですが、試合風景を見ていると、どちらか仕掛けた方が「あ、足りた」と言って、1ターンで8000ポイント以上のライフを奪い、勝利している様子を多々目にしました。対戦相手はただ、相手の展開を眺めて死を待つばかり・・・。これが普通なのでしょうか?昔はたぶんSASAも何の疑問もなく「強いな、参考になるなー」とスルーしていた事でしょう。でも最近やたら気にしてしまうのです。やられた相手はその試合を本当に「楽しむ」事ができたのか?と。
確かにまぐれながらもいくつか成績は残せました。しかし、今となっては虚しい過去の栄光とさえ思えます。ああ、たぶんもうトーナメントプレイヤーとしてのSASAはずいぶん前から死んでいたのかもしれませんね。
「自分、相手ともに勝ち負け関係なく楽しめる」、そういうデッキをこれからは考えていきたい。そしてコミュニケーションの幅を広げていきたい。そう思います。
P.S:殺人マシーン(?)になるのは公式大会当日だけで十分(もうロートルですがw)。日常の公認大会くらいは、難しく考えたり、勝ちに固執せずに、参加者の皆さんとただ楽しく過ごせたら、と思います。
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